11/24 東京ミッドタウンの d-Labo なる場所で、
LIGHTDESIGNの東海林さんの講演を聴いてきた。
連続サロンで「素材・色彩・照明」という企画を考えて、以前に展覧会のお手伝いの折にお酒の席で4〜5時間かお話するも、ご講演のお願いをキッパリ断られた。
それ以来、いつか個人的にでもどこかで講演会に行こう思っていたので念願かなった感じ。
サロンでお話うかがったお二方同様に、やっぱり「◯◯バカ」と自称されるくらいのマニアックさ。物事の本質的なことを考えられていて、ものすごく刺激だった。
照明デザイナーと聞くと、アーティスティックなイメージが先行してしまいがち。
でも、やっぱり話をうかがってみないと分かりませんね。
これも、全部思い出して記述し出したら途方ないし、正確に記述する意味はなく聞いて思ったこと考えたことを記録に残したいので内容+それだけ書こうと思う。
ーーお話内容ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
高度経済成長期に現れた蛍光灯が生み出した世界は「幸せのシンボル」だった。
それ自体は悪いことではなく、明るいという状況が新しい時間を生み出し豊かさを増す助けとなったことは間違いない。
しかし、先の3.11でその価値観が崩壊した。
ここで「暗くてもいい」「明るくしているのは恥だ」という価値観が出てくる。
しかし、この「0」「1」的な思考が生み出すのはあまり好ましい状況ではない。
恐らく人々はじきに忘れて戻ってしまうかもしれないし、「豊かでない暗さ」というものが生まれてもいる。
“「必要な光」「無駄な光」を見極める力が重要である。”
”照明とは人間の幸せの為に工夫されるべきである。”
“ 照明が本来持つ力は、単に空間を照らすことだけではなく、人の心を明るくすることだと思うのです。”
全て東海林さんの言葉。
NHK BSの「旅のチカラ」の企画で行かれたパプアニューギニアの電気のない島での体験話。長老にこの島にとって照明とは何かと聞いたそう。
「家々に照明がともると安心できる。今日も一日島民が無事に行きていると確認できるか。照明とは“命のシンボル”である」
これらを受けての東海林さんの照明に対する解釈。
2.522.880.000秒(人の一生)
私たちの命(人生)を温めてくれる光であるかどうか。照明とは人生の時間をつくるもの。
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明るいか暗いかの二者択一の状況を打破し、「美暗(びあん)」を人々に伝えていく。
本当に豊かな光のあり方についての考えを世の中に共有されていこうとしている。
講演の内容的にはつまりそういうことだった。
でも、1番気になったのは冒頭のお話にあった
「人」と「光」/「地域」と「光」の関係について。
住まう地域によって、我々の培ってきた光との関係は違う。
つまり光にもコンテクストがあるということだと思う。
地域固有の「人」と「光」の関係性が存在する、そういう視点で地域全体をデザインする。非常に興味深い。
もちろん都会においてはそれは成立しないかもしれない、固有性があまりに埋没しているし、照明で溢れ変えているから。その為に「全体のデザインコンセプト」の適切な設定が重要になってくるんだと思う。
そういう視点をもって、地域ことを考え出すと様々なアイデアが湧いてくる。
特に、地方都市においては大きなヒントになるんではないかと思う。地域の本来持っていた風景再生にも一歩近づく、システムと一体化した照明の地域総合計画(空間的・時間的)なんてのも考えられそうである。
これまで「照明」は安全の為に明るくする、或は意匠的・演出的なイメージがどうしても強かった。というか、社会に出ればそういう考え方がまだまだ多数であると思う。
東海林さんのおっしゃるように、
照明が本来持つ力は、単に空間を照らすことだけではなく、人の心を明るくすることであるという考え方はまだ少数派だろう。
4月から社会にでれば、公共空間の設計の現場で働くことになると思う。
そこでは行政やなんやと打合せが発生してきて、その際はやっぱり安全性って言葉が強く強くのしかかってくると思う。或は経済性。
しかし、それは過剰な安全性を保証するためのモノであることが多い。
これは照明だけでない、恐らく構造もそう。色の決定プロセスも不明瞭な部分が多い。
それらのプレッシャーと粘強く戦いながら、利用者が豊かな空間体験をしてもらえる空間を創りたい。それが、地域の風景を支えるものとなって欲しい。
その為には、照明でいえば「暗くても良い事例」を多く見せて説得すること、実際に実験をしてを納得してもらうこと等々を使いながら上手く事業パートナーを例外を許容する方向へと導いていくテクニックも必要になってくるだろうと思う。
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最後に講演の後に思ったこと。
7月のサロンの内容にフラッシュバックした。
ディテールについて。
「光」「素材」「色」に対しての基礎的な知識不足は否めず、それは素直に勉強したいと思う。
全て門外漢ではあるが、なんとなくそれらの関係性みたいなものについての仮説というか感覚的なものをもっている。それらは旅等々で見てきたまちや建築、土木、ランドスケープなどの事例などから形成されているなんとなくのものだろう。
なんとなくであるが、そういった複数の視点のバタンスをとったり、関係性をみるといった意味では、大学で学んできた
「風景」と言う切口で物事を読解く力を養ったことは非常に役立つように思うのである。そして自分はそういった部分が秀でているようにも思う。カタチに落とすところが(実践が弱い)のは自分でも分かっている。
もちろん何かのスペシャリストにならねばならないのかもしれないけど、それは職人的なイメージよりもバランサーとしてのイメージが強い。
そういったスペシャリスト・職能があり得るのかはよく分からないし成立するのかもよく分からない。この辺りは常々悩んでいる部分、来年からどうするか。
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文がそれた。
ディテールからモノやコトやシステムに逆照射させていく思考ももっとされても良いのではないか。その逆の思考ももちろん重要なのは言うまでもない。
その思考の両方向性と重きをどこに置くのかの判断/バランス感覚が重要。
そういった意味で、デザインコンセプトを見極める力はものすごく必要になる。
それは、風景と真摯に向き合っている、考えている者だからそこできることであるように思う。
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あれこれ考えていてふと、内藤先生の創られた
「GROUNDSCAPE」という言葉に対する自分なりの解釈がすっと体に入ってきた。
「Ground」という言葉が持つ意味が具象的な意味を越えて、ものすごい広がりをもっていることに今更ながら気づいたというのが正直なところ。
「Ground」=大地、土地、基盤等々といった意味が主意である。
これを「G-round-scape」と分解してみる。
「G」という接頭文字
これには、例えばGravity、Geneだとか地球や人間といったものの根源と関わってくる様な言葉が多い。(ちょっと無理があるかも)
「round」
これには「輪状に何かを取り巻くイメージ」或は「それらの関係性やバランスが図られた状態(丸みを帯びた整ったような)」な意味があると個人的には解釈できる。
そうやって考えてみると、人々の生活や自然の営みを寡黙に支え、良好な関係性、バランスを図ってくれているのは「Ground」に他ならない。
そして、それらから醸出されている状態
(景=Scape)が
「Groundscape」である。
すなわち、自分が言っている「風景」という概念の英訳は
「Landscape」ではなく、「Groundscape」だ。今後はそうやって言おうと思う。
そんなこんな考えていて、グランドスケープ宣言を読返してみた。
「おそらく篠原修の目には、傷だらけになったGroundがはっきり見えている。だからGroundを蘇生させるべきだと、と呼び掛ける。そこに人の心をつなぎ止めようとする。つなぎ止めるために、風景の意味をGroundまで立ち戻って掘り起こそうとする。Groundを全体としてとらえ直すこと、Groundに語りかけること、そしてGroundが囁きかける微かな言葉に耳を傾けること。」
「Groundscapeは、風景が廃虚化していくことへのアンチテーゼにほかならない。」
グラウンドスケープ宣言より抜粋
ちゃんと先生は言ってますね。
明確にではないけど本の冒頭部は内藤先生の「Ground」に対する解釈の文が多分に載っている。
自分の解釈は少しずれるかもしれないけど本質的には同じだと思った。
自分なりに体にすっと入ってくる解釈が得られてよかった。
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文章が頭の中を象徴しているように離散的で繋がりを見出せなかった。
けど、この一見離散的に見える思考はきっと繋がってる。
何年か後に見返した時に繋がって上手く説明できればいいかなと思う。
今、修論でやっている橋の「空間性」の話も同じ。
利用者の体験から橋のあり方を逆照射させていく考え方の試行。
もちろん橋としてのバランスや経済性やなんや種々のバランスをみるのが実務では前提の考え方であるのは理解している。
しかし、橋梁空間の利用者の体験の豊かさから逆算していくことは新しい設計の視点を与えてくれると思う。これは利用者の意見をきくとかそういったレベルの話ではなく、もっと根源的な話。
そういった別の視点からの刺激が、エンジニアリングの可能性を誘発するのではないか。
で、そういう考え方はすでにされていて、現在はそれをどうやって実行に移すかの手段を考えるフェーズであるご指摘頂いた。全くその通りである。
一方で、アカデミックの場ではそういったモノづくりについての研究は減っているように思う。特に橋の研究。ある時期で殆どもう終わりですってごとく研究がストップしているように思われる。
まだまだ、研究すべきことは多いなと思う。
特にディテールと環境をも含む全体のホリスティックな1つの複雑系と人間の感性との関係性。
そして、ディテールこそが風景に繋がっていく重要な部分を担っていて、遠回りのように見えて近道ではないかということ。
「Groundscape」の解釈の話とディテールの話が繋がっていないようだけれども「関係性」「バランス」といった部分で繋がっている様な気がするのです。
そんなことを学生の頭でっかちな思考の限りでは思うのです。
ぶつ切り離散的な文章。
でも頭の中を20-30%くらいだけだけど、記述しておけてよかったように思う。