20111227

【告知】2012年、橋梁歩き初め

GSDy主催 ミニ見学会
“2012年、橋梁歩き初め”


 橋梁天国として知られる(?)横浜と川崎へ、年始早々に見学に行きたいと思います。実際に数々の橋梁の設計をされていらっしゃる松井幹雄さん(大日本コンサルタント株式会社)をゲストとしてお迎えし、一緒に2012年歩き初めたいと思っております。実際の設計者から直接お話をうかがえる貴重なチャンスです、是非奮ってご参加ください。
 午前も橋梁デザインのパイオニアであるエムアンドエムデザイン事務所が関わられた初期の橋梁を中心に見てまわります。マニアックではありますが是非!!


日時:20120107日 9時30分 – 18時00分頃(その後、懇親会@川崎を予定)

場所:横浜市臨海部・川崎駅前(集合はJR石川町駅)

講師:松井幹雄さん(大日本コンサルタント株式会社)


行程(予定):

0930分 JR石川町駅集合
       ↓
・中川沿いに架橋されている橋梁を見学

市場通り橋 ②前田橋 ③代官橋 ④フランス橋(エムアンドエムデザイン事務所)
⑤ボーリン橋 ⑥他横浜市の歴史的橋梁 等々
       ↓
1100分 昼食@元町中華街
       ↓
1230分 馬車道駅(設計:内藤先生)にて松井さんと合流
       ↓
⑥北仲橋(NE設計) ⑦汽車道(NE設計)
⑧新港サークルウォーク(アジア航測:寺田さん、一丸さん、篠原先生監修)
⑨国際橋(NE設計)⑩はまみらいウォーク(NE設計+エムアンドエムデザイン事務所 
       ↓
1545分 横浜駅
       ↓
1610分 川崎駅(日の入りが恐らく17時前)
       ↓
⑪川崎ミューザデッキ(NE設計+エムアンドエムデザイン事務所 
       ↓
時間が余れば、川崎駅西口の駅広デザイン(NSC)等も見学可
       ↓
1800分位 見学会終了
       ↓
1830分頃〜 懇親会@川崎駅周辺


申込:
下記の連絡先まで、氏名/所属/連絡先を添えてご連絡願います。
w.caee.o.yuji@gmail.comGSDy代表 岡田



途中(昼頃)から参加も可能ですのでその場合はその旨も併記してください。
〆切は年末年始なので設けませんが懇親会のお店の予約がありますので年内くらいでご連絡頂けると助かります。

以上、宜しくお願い致します!








参考までに、当日歩き初める橋の写真を少しばかり掲載しておきます。




 
フランス橋 1984




はまみらいウォーク 2009





川崎ミューザデッキ 2003







20111125

離散的な思考の書き殴り と 「Groundscape」に対する自分なりの解釈


11/24 東京ミッドタウンの d-Labo なる場所で、LIGHTDESIGNの東海林さんの講演を聴いてきた。

連続サロンで「素材・色彩・照明」という企画を考えて、以前に展覧会のお手伝いの折にお酒の席で4〜5時間かお話するも、ご講演のお願いをキッパリ断られた。
それ以来、いつか個人的にでもどこかで講演会に行こう思っていたので念願かなった感じ。

サロンでお話うかがったお二方同様に、やっぱり「◯◯バカ」と自称されるくらいのマニアックさ。物事の本質的なことを考えられていて、ものすごく刺激だった。

照明デザイナーと聞くと、アーティスティックなイメージが先行してしまいがち。

でも、やっぱり話をうかがってみないと分かりませんね。

これも、全部思い出して記述し出したら途方ないし、正確に記述する意味はなく聞いて思ったこと考えたことを記録に残したいので内容+それだけ書こうと思う。


ーーお話内容ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

高度経済成長期に現れた蛍光灯が生み出した世界は「幸せのシンボル」だった。
それ自体は悪いことではなく、明るいという状況が新しい時間を生み出し豊かさを増す助けとなったことは間違いない。

しかし、先の3.11でその価値観が崩壊した。
ここで「暗くてもいい」「明るくしているのは恥だ」という価値観が出てくる。

しかし、この「0」「1」的な思考が生み出すのはあまり好ましい状況ではない。
恐らく人々はじきに忘れて戻ってしまうかもしれないし、「豊かでない暗さ」というものが生まれてもいる。

“「必要な光」「無駄な光」を見極める力が重要である。”
”照明とは人間の幸せの為に工夫されるべきである。”
“ 照明が本来持つ力は、単に空間を照らすことだけではなく、人の心を明るくすることだと思うのです。”

全て東海林さんの言葉。

NHK BSの「旅のチカラ」の企画で行かれたパプアニューギニアの電気のない島での体験話。長老にこの島にとって照明とは何かと聞いたそう。

「家々に照明がともると安心できる。今日も一日島民が無事に行きていると確認できるか。照明とは“命のシンボル”である」

これらを受けての東海林さんの照明に対する解釈。

2.522.880.000秒(人の一生)
私たちの命(人生)を温めてくれる光であるかどうか。照明とは人生の時間をつくるもの。

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明るいか暗いかの二者択一の状況を打破し、「美暗(びあん)」を人々に伝えていく。
本当に豊かな光のあり方についての考えを世の中に共有されていこうとしている。

講演の内容的にはつまりそういうことだった。



でも、1番気になったのは冒頭のお話にあった「人」と「光」/「地域」と「光」の関係について。


住まう地域によって、我々の培ってきた光との関係は違う。
つまり光にもコンテクストがあるということだと思う。

地域固有の「人」と「光」の関係性が存在する、そういう視点で地域全体をデザインする。非常に興味深い。

もちろん都会においてはそれは成立しないかもしれない、固有性があまりに埋没しているし、照明で溢れ変えているから。その為に「全体のデザインコンセプト」の適切な設定が重要になってくるんだと思う。

そういう視点をもって、地域ことを考え出すと様々なアイデアが湧いてくる。
特に、地方都市においては大きなヒントになるんではないかと思う。地域の本来持っていた風景再生にも一歩近づく、システムと一体化した照明の地域総合計画(空間的・時間的)なんてのも考えられそうである。

これまで「照明」は安全の為に明るくする、或は意匠的・演出的なイメージがどうしても強かった。というか、社会に出ればそういう考え方がまだまだ多数であると思う。

東海林さんのおっしゃるように、照明が本来持つ力は、単に空間を照らすことだけではなく、人の心を明るくすることであるという考え方はまだ少数派だろう。

4月から社会にでれば、公共空間の設計の現場で働くことになると思う。
そこでは行政やなんやと打合せが発生してきて、その際はやっぱり安全性って言葉が強く強くのしかかってくると思う。或は経済性。

しかし、それは過剰な安全性を保証するためのモノであることが多い。
これは照明だけでない、恐らく構造もそう。色の決定プロセスも不明瞭な部分が多い。

それらのプレッシャーと粘強く戦いながら、利用者が豊かな空間体験をしてもらえる空間を創りたい。それが、地域の風景を支えるものとなって欲しい。

その為には、照明でいえば「暗くても良い事例」を多く見せて説得すること、実際に実験をしてを納得してもらうこと等々を使いながら上手く事業パートナーを例外を許容する方向へと導いていくテクニックも必要になってくるだろうと思う。



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最後に講演の後に思ったこと。
7月のサロンの内容にフラッシュバックした。

ディテールについて。


「光」「素材」「色」に対しての基礎的な知識不足は否めず、それは素直に勉強したいと思う。

全て門外漢ではあるが、なんとなくそれらの関係性みたいなものについての仮説というか感覚的なものをもっている。それらは旅等々で見てきたまちや建築、土木、ランドスケープなどの事例などから形成されているなんとなくのものだろう。

なんとなくであるが、そういった複数の視点のバタンスをとったり、関係性をみるといった意味では、大学で学んできた「風景」と言う切口で物事を読解く力を養ったことは非常に役立つように思うのである。そして自分はそういった部分が秀でているようにも思う。カタチに落とすところが(実践が弱い)のは自分でも分かっている。

もちろん何かのスペシャリストにならねばならないのかもしれないけど、それは職人的なイメージよりもバランサーとしてのイメージが強い。
そういったスペシャリスト・職能があり得るのかはよく分からないし成立するのかもよく分からない。この辺りは常々悩んでいる部分、来年からどうするか。


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文がそれた。

ディテールからモノやコトやシステムに逆照射させていく思考ももっとされても良いのではないか。その逆の思考ももちろん重要なのは言うまでもない。

その思考の両方向性と重きをどこに置くのかの判断/バランス感覚が重要。

そういった意味で、デザインコンセプトを見極める力はものすごく必要になる。
それは、風景と真摯に向き合っている、考えている者だからそこできることであるように思う。

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あれこれ考えていてふと、内藤先生の創られた「GROUNDSCAPE」という言葉に対する自分なりの解釈がすっと体に入ってきた。
「Ground」という言葉が持つ意味が具象的な意味を越えて、ものすごい広がりをもっていることに今更ながら気づいたというのが正直なところ。

「Ground」=大地、土地、基盤等々といった意味が主意である。
これを「G-round-scape」と分解してみる。


「G」という接頭文字
これには、例えばGravity、Geneだとか地球や人間といったものの根源と関わってくる様な言葉が多い。(ちょっと無理があるかも)

「round」
これには「輪状に何かを取り巻くイメージ」或は「それらの関係性やバランスが図られた状態(丸みを帯びた整ったような)」な意味があると個人的には解釈できる。

そうやって考えてみると、人々の生活や自然の営みを寡黙に支え、良好な関係性、バランスを図ってくれているのは「Ground」に他ならない。

そして、それらから醸出されている状態(景=Scape)「Groundscape」である。

すなわち、自分が言っている「風景」という概念の英訳は「Landscape」ではなく、「Groundscape」だ。今後はそうやって言おうと思う。


そんなこんな考えていて、グランドスケープ宣言を読返してみた。

「おそらく篠原修の目には、傷だらけになったGroundがはっきり見えている。だからGroundを蘇生させるべきだと、と呼び掛ける。そこに人の心をつなぎ止めようとする。つなぎ止めるために、風景の意味をGroundまで立ち戻って掘り起こそうとする。Groundを全体としてとらえ直すこと、Groundに語りかけること、そしてGroundが囁きかける微かな言葉に耳を傾けること。」


「Groundscapeは、風景が廃虚化していくことへのアンチテーゼにほかならない。」


グラウンドスケープ宣言より抜粋

ちゃんと先生は言ってますね。
明確にではないけど本の冒頭部は内藤先生の「Ground」に対する解釈の文が多分に載っている。
自分の解釈は少しずれるかもしれないけど本質的には同じだと思った。
自分なりに体にすっと入ってくる解釈が得られてよかった。

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文章が頭の中を象徴しているように離散的で繋がりを見出せなかった。
けど、この一見離散的に見える思考はきっと繋がってる。

何年か後に見返した時に繋がって上手く説明できればいいかなと思う。

今、修論でやっている橋の「空間性」の話も同じ。
利用者の体験から橋のあり方を逆照射させていく考え方の試行。
もちろん橋としてのバランスや経済性やなんや種々のバランスをみるのが実務では前提の考え方であるのは理解している。

しかし、橋梁空間の利用者の体験の豊かさから逆算していくことは新しい設計の視点を与えてくれると思う。これは利用者の意見をきくとかそういったレベルの話ではなく、もっと根源的な話。

そういった別の視点からの刺激が、エンジニアリングの可能性を誘発するのではないか。

で、そういう考え方はすでにされていて、現在はそれをどうやって実行に移すかの手段を考えるフェーズであるご指摘頂いた。全くその通りである。

一方で、アカデミックの場ではそういったモノづくりについての研究は減っているように思う。特に橋の研究。ある時期で殆どもう終わりですってごとく研究がストップしているように思われる。

まだまだ、研究すべきことは多いなと思う。
特にディテールと環境をも含む全体のホリスティックな1つの複雑系と人間の感性との関係性。

そして、ディテールこそが風景に繋がっていく重要な部分を担っていて、遠回りのように見えて近道ではないかということ。



「Groundscape」の解釈の話とディテールの話が繋がっていないようだけれども「関係性」「バランス」といった部分で繋がっている様な気がするのです。

そんなことを学生の頭でっかちな思考の限りでは思うのです。

ぶつ切り離散的な文章。
でも頭の中を20-30%くらいだけだけど、記述しておけてよかったように思う。






まちづくりの根幹にあるもの


題名の僕なりの答え「祭」


以前、事前視察をご一緒したこともあって
GSDyでお世話になっている国交省の先輩にお誘い頂いて
11/19(土)に国交省若手有志の「景観若手の会」なる団体の方々と一緒に川越見学会に行ってきた。

生憎の雨だったが、ただただ…1日楽しかった。

3年間通っていたのにこんなにも川越のことを知らなかったのか、と痛感した一日でもあった。


通学路裏にひっそりと隠れていた旧川越織物市場

お話をうかがった場所:古い蔵の改修をしたYAMAWA CLUB

市役所の荒牧さん、蔵の会の現会長の原さん(共に川越高校の大先輩)

NPO法人 川越蔵の会 HP:http://www.kuranokai.org/home.html



勉強になっていうのもあるけど、なんだろう川越に対する愛着がすごく強まった感じ。

企画して下さった先輩・朝から1日中ご案内頂いた市役所の荒牧さん・原さんをはじめとした蔵の会の皆様・川越のまちの方、全ての方々に感謝感謝です。



 夜も鏡山を頂きながら…都市計画図が出てきちゃいます(笑)

 みんなであれこれ議論
(写真で僕がお話している方は元土木エンジニア大野さんとお仕事されていたそう。
蔵の会のデザイナーや技術者の層の厚さといったらすごい

(上記2枚は先輩のFBより転載。話に夢中で写真撮ってなかった)


得た知識や1日の行程を書出すとまとまりきらないので、川越祭りと見学会を通じて考えたこと・思ったことだけまとめようと思う。



1. まちづくりの根幹にあるもの=祭り

1.1 繋がり
今回お話をうかがって驚いたのが、蔵の会や商店主の世代間のバトンの受け渡しが上手くいっているということ。郊外の大規模店舗⇄商店街の構図になる前、早期の段階でまちづくりに力を入れられたこともあって、客が来るからお店を継ごうと思われる方が多いというお話には納得であるが、それにしてもスムーズ。

この秘密は、「祭り」あると思う。

川越には有名な川越祭りがある。これは観光化されたものというよりも地元密着型なイメージを受ける(地元の方々がものすごく満喫されているイメージ)。冒頭写真にもあるように、祭りの際には地域が一体となって全員参加ぐらいの勢いである。
「祖父ー親父ー息子」三世代がしっかりと繋がりを形成できるキッカケになっているのだと思う。コミュニケーションのキッカケである。

また、これは世代間だけでなく、地域の人々の間の繋がりをもつくり出す原動力になっている。

お話を伺う限りではあるが、川越の場合は「旧住民」⇄「新住民」の対立もあまりないという。祭りの際にも、外国人の親子が祭りに積極的に参加している姿がみられた。
そういうことかと納得。祭りという1つのイベントが地域の人々を繋ぐキッカケにもなっているのである。

服部資料館のご主人服部さんからうかがった話。

「昔は川越祭りは、山車の用意・運行は町人の人々が、山車の上のお囃子は農民の人々がしていた。町人(商人)のお客さんは、農民の人々。町人は儲かったお金でお祭りを運営する。演奏をしてもらう為に、農民にお金を払う。山車の上にのってもらうことでお客様である農民をたてる。農民はまた町でお金を落とす。」

正確な言葉をひかえていないのだけど、そんな感じ。

ここから分かったことに、祭りというものが「まちの経済の循環」「町人と農民の間の繋がりを良好に保つ」ことにも寄与していたということ。

これってすごく、すごく学ぶことが多い。
外部資本がある今のまちづくりにそのまま活かせる訳ではないけど、これからのまちづくりにヒントを与えてくれるお話。

コンパクトシティー + 農村型 のネットワーク式の都市モデルを佐藤先生のディベートの時間に発表していたけどそんなモデルに対して示唆する部分が多い。


1.2 空間的な設え
前に祭りの記事にも書いたけれど、祭りがまちの空間的な「しつらえ」さえも生み出す。川越では一番街の電線地中化に際して「山車が空に映え、美しく見えるよう」にという意図もあったそうである。
また、「電線の道路横断方向の電線を減らす」「電線をなるべく高くする」「信号機を回転式にする」などなど1年に1度の祭りの為にまちの空間的な「しつらえ」がなされている。そういったまちのシステムと結びついたハードの整備がされている空間ってすごく豊かであると思う。


1.3 まとめ
川越は特殊解っていう指摘もあるかもしれないけど、こうやって考えてみると「世代間・地域間の繋がり」「空間的な設え」といったものから、まちづくりの根幹に「祭り」がある。これは面白いなと思った。


織物市場から見た背景のマンション
(ここが整備されて使われ出すとすごい風景が生まれると思う)


2. 風景を維持し続けることの難しさ

原さんのお言葉が重かった。

「正直、蔵の修繕をする為に働いているようなもの、もう意地とかプライドでしかないですよ。」

自分の中では「風景とは、人々の生活や自然の営みが醸出すもの」と定義している。
景観という言葉は使いたくないので、風景で書く。

そう、ただあるように思える風景は住まう人々の努力でなりたっているのである。
まさに人々の生活(ここでは商いも)が醸出しているのである。

結論からいえば、その生活や商いのシステム自体をどうにかしない限りは風景に持続は困難であると思う。

これまでは、街並を整える為に景観条例を作ってきた。それらは一定の効果を上げてまちなみを整えることに一役買ってきたことは間違いない。

蔵の会の方のお話にも、これからの川越は「外部資本の侵入」との戦いとあったように、川越のコンテクストとは全く関係ない、商業的な意図のみで成り立っているものが入ってきたらそこには風景は醸し出されるのだろうか。答えは明確にNOだと思う。

アカデミックの場でも言われていること(ウチ研究室のゼミではよく話す)で、既にまちのファサードだけ見ていてもダメで、その中である人々生活に踏み込んでいかなければ風景を維持できないのである。

生活景というのもその考え方に近いと思う。(一般的な定義はおいといて)

そういった、部分をフォローする様な、制度なりまちづくりシステムを上手く作っていかなければならないし、ある意味ではそれが studio-L でやっている「コミュニティーデザイン」であり、西村さんが言ってる地域の「自走力」だと思う。

国の制度は勉強不足で分からないけど、そういったゲリラ的な動きは既にたくさんある。
ので今更な話をしているんです。自分の思考の整理の為に書いてるので。



3. 将来的に川越に自分の蓄積を還元したいという気持ちの芽生え


 これは、蔵の会の皆さんを見ていて羨ましくなったというのが本音。
自分たちのまちを心から愛して、誇らしく、楽しそうに、熱く語り合っている姿を見て嫉妬してしまった。

もちろん、自分の長く生まれ育った吉見町にも愛着はある。特に自然の豊かさに関しては素晴らしい。

しかし、高校時代に3年間川越高校に通っていて川越のまちには育ててもらったこともあって、川越を第二の故郷と思っている。だから川越に対する愛着も強い。そして今回の見学会でそれが更に強くなった。

将来的に、自分が培った知識なり技術をこのまちに還元できたら良いなと心の底から思ったというのが本音。まだ還元できるものを持っていない若造だけれども、蔵の会に入会しちゃおうと思うくらい。

無事に職を全うしたら将来は川越に住んで、まちづくりに関わりながら余生を過ごせたらいいなと思った夜だった。

なにか、大切なものを得た1日だったように思う。


長々書いてしまったけれど、ホント楽しかった。
酔っぱらって終電逃したしね。

おしまい



20111118

頭で理解すること(思考すること)⇆実践の積重ね


色んな場所で誰かと議論するなり
あれこれブログで書くなりすることで

思考はある程度整理される、それ自体は非常に良いこと

議論できる恵まれた環境にいるのは、非常に感謝しなければならない



しかし、実際に社会にも出ていない自分があれこれ考えていること
それは頭でっかちな思考に他ならないと感じる

社会に出たら大いなる壁に出くわすのだろう、間違いなく


今あれこれ考えていることが悪いことではない
でも、やっぱり第一線でご活躍されている方の言葉の前にして
返せる確かな言葉がない

(当たり前な悩み過ぎて自分でもびっくりですが言語化しておきたかった)


頭では理解はできているんだけれども
熱い想いはあるんだけれども
言葉もある程度でてくるのだけれども

現在の自分が発することのできる言葉に重みや確からしさがなく
全てがおこがましく見える/聞こえるのではないかと自分自身ですごく感じる。

それがもどかしくて、時々言葉に制限をかけるようにしている/してしまっている


もちろん、自分自身の行いの結果としての情報の蓄積や
それらから思考を巡らせて自分なりに解釈して出てくる言葉なので
それ自体を自己否定するつもりもない

むしろ、そこは自分を褒めてあげたい
自分自身の行動の積み重ねからくるものだから

むろん、それらは周囲の方々のご協力無には成り立っていないことは理解しているし
それに対して、感謝の気持ちをもっている
(…感謝したりていないかもしれません、もっとそれを表現します)



でも、やっぱりもどかしい


大先輩から頂いた言葉で以前もブログに書いたけど、

「重要なのは、今考えていることを、様々な状況の中でいかに継続できるか」

本当にこれに尽きる、読み変えれば

「社会人として大いなる壁と対峙した時に、いかに今持っている思考を曲げずに実践し続けられるか」


そして、


「実践の積重ね⇆頭で考えること(思考すること)」

これが大切なのだろう
どちらか一方ではダメでバランスが大切


その両方を常に行き来しながら
自分の言葉に確からしさや重みを得ていければと思う


働きたい、実践したい、今、思考していることを社会にぶつけていきたい

と、もどかしく思っているのだと書き連ねていて理解


しかし、焦りは禁物
今はやっと軌道に乗り出した修論を最後までやり遂げること
これが最優先事項であり、これをしっかりとモノにすることが重要だ


グッチャグッチャな文章になってしまった
たまにはそういうグチャグチャな頭の中をそのまま言語化しておくのも良いとしようか












20111116

2011_Laurent Ney_Shaping Forces

先日の GSDy salon「 欧州ドボクデザイン紀行報告会 」 の八馬先生のお話にもかなり登場されました Neyさんの講演会の告知です。

今年も講演会があると、Ney事務所の渡邉さんからご丁寧に連絡頂いたので、既にTwitter等でご存知の方も多いかと思いますが、この場をつかって改めて告知します。
(研究室は、WBにポスターはっといたのでそちらを見てください。)


今年、東京近郊では下記の2カ所、他に大阪、九州でもご講演の予定とのこと
詳細は下記のポスターをご参照下さい

11月29日(火)14:40 - 17:00 @Y-GSAパワープラントホール(横浜)
11月30日(水)18:00 - 20:30 @日本大学CSTホール
12月01日(木)14:00 - 17:00 @大学コンソーシアム大阪 


Poster@Y-GSA


Poster@日本大学


Poster@osaka

学部4年時、早稲田にお越し頂きお話をうかがってから早くも3年。
昨年は4月から入社する会社主催で行われた講演会にも行ったので、今年でお話をうかがえるのは3度目。

何度お話聴いても毎回勇気をもらえる、「また1年頑張ろう」と思える。
そんな素敵なお話がまた今年も聴けるのではないでしょうか。


個人的に気になるのは、九州での講演会の内容「共有されるデザイン思想とは」

Poster@九州

[Posterは告知用にご提供頂いたものを掲載させていただいています]

KL2の主催ということもあって早くからお話を頂いていて少し動向を知っていたこともあったが、最終的に渡邉さんとの座談会という形でまとまったよう。
非常に有意義な会になりそうで切に行きたかった、羨ましい限り。

その個人的な想いと、まじめな話全国の若手社会人・学生に発信する意味で、
この座談会の内容を、GSDy LetterPremium に掲載させていただけないか現在交渉中。
(先日のKL2代表の彼との打合わせでは実現できそうな好感触!?)

乞うご期待









20111112

【イベント告知】12月2日(金)「景観・デザイン研究発表会 学生/若手社会人 交流会」のご案内

[20111123詳細内容更新]
現在、東北・関東・関西・九州合わせて43名参加予定です。


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2011年12月2日(金)~4日(日)@日本大学において第7回景観・デザイン研究発表会が開催されます。

これに併せまして今年もGSDy・KL2・景観開花の景観系学生団体の共催で、学生・若手社会人交流会を行います。

昨年は交流会企画初年度にも関わらず、かなりの数の学生・社会人の方々にご参加頂きまして大盛況でした。
ご参加頂きました皆様、ありがとうございました。


昨年の若手交流会の様子


今年も是非、奮ってご参加頂ければと思います。

以下、概要については、KL2のMLの内容を引用させて頂きます。
とかって去年の告知文を思ってたら、去年自分が書いた文章でしたw


開催趣旨
景観デザイン研究発表会も本年で7年目を迎え,
景観デザインという学問分野も次第に社会に認知されつつあるように思います.
また「GROUNDSCAPE DESIGN youth」「Kyushu Landscape League」「景観開花運営局」
をはじめとして,多くの景観系学生団体の活動も活発に行われており,「景観」という
キーワードのもとに確実に若者同士の輪が広がっているのではないでしょうか.
しかし,各団体の抱える問題点として地域別に団体の活動が偏ってしまう,というものがあります.
地域内での輪は確実に広がりつつありますが,地域間の輪のつながりはまだまだ不十分な状況に
あるように感じます.
そこで今年も,東京にこの研究発表会を期に景観をキーワードとして活動を行っている
学生,若手社会人が一同に会します.
そこで,地域毎にその結束力を高めつつある若者同士の輪を全国へと広げていくことを目的とし,
今回交流会を企画させていただきました.
この交流会を機に,各団体間の連携を強め,各団体・個人の活動が今後更に活発化するように
願ってのことです.

□日時:12月2日(金) 学会シンポジウム終了後 18:00ー20:00


□場所:PRONTO 御茶ノ水店(貸切) http://www.pronto.co.jp/shop/detail.php?shopid=36




□会費:3000円

□お申込み期間:11月27日(日) 最終〆切

□お申込みフォーム: 
・氏名:
・所属:
・連絡先:

GSDy代表岡田( w.ceee.o.yuji@gmail.comまでご連絡頂ければと思います。
複数団体に加入されている方は一つの団体に連絡して頂ければ結構です。


また、前回同様に一般参加も大歓迎ですので研究室や職場のご友人・ご同僚様等も是非お誘いください。

20111106

ゆとりジェネレイション、気負わずに頑張る。

早稲田大学西早稲田キャンパス TULLYsコーヒー 設計:古谷誠章


タイトルと全く関係ないけど、カメラを持っていたので理工のカフェの写真を撮ってみた。

最近、樹木を通すために刳り貫いた屋根っていうのをよく見かけるけど、ココの屋根が一番かっこいいなと思う。(川崎駅のとかはどうも好きになれない)

コンクリートの素材感とか厚さ(重さ)が効いているように思う、感覚的だけれども。


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ASIAN KUNG-FU GENERATION Live
“さよならゆとりジェネレイション”




さておき、学生最後の年だったので、最後くらいと思って学園祭に行ってライブみてきた。


予想はしていたけど、高校の文化祭の様な盛り上がりだった。
新曲含む10曲程度、全部は分からなかったけど有名どころが多くて嬉しいばかりだった。


観客はみんな汗だく、でも一体感があってすごくよかった。




MCの時の言葉が印象的だったので反芻して自分の言葉に変換してみる。

「ロストジェネレーション」
「ゆとりジェネレーション」

表現はなんでも良いけど、今も昔も状況はそんなに変わっていないし、社会に出れば困難に立ち向かわなければならない。

むしろ、変わったのも若者のメンタリティーの方、すこぶる弱っている。
(自分はその典型だ)

一人一人が意識を変えていった、その総体としての意識変化があるレベルに達しなければ、社会を変えていくことはできない。


「世界を変える」「原発反対」とか、もうウンザリ。

一人で多くのこと(大きなこと)を抱込んで、すごんで、できないからって自分に失望して勝手に自暴自棄になるな。


「音楽で世界なんて変えられない」
「みんな一人一人が良い音楽を選ぶチカラが世界を変える」

バンドマンなのに、言うこと潔すぎてなんか感動した(笑)


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Party@自由が丘



その後、移動して自由が丘で鍋パ。

上で言っているような、社会を変えられる程の総体としての意識変化のスケールとまではいかないかもしれないけれど、想いや思想を共にした素晴らしい先輩方と研究室同期と終電まで飲み語らってきた。

鍋も料理も議論も、おいしい空間・時間だった
ほっこり癒される(励まされる)ひと時だった

本当に良い先輩たちや同期に巡り会えてよかったと帰り道、先輩と話していた。
これからも大切にしていきたいねと。


「仲間(同志)がいること」

上で言っていたことに対する答えのような気もした。

一人ではない、抱え込む必要はない、躍起になって自暴自棄になる必要はない。
一つ一つ自分の成せることを成していくことこそが、世界を変えるチカラになる。

そんなカンジ。


今朝は、感覚的なことやあんまりまとまってないことを書き始めたので
明確な結論もないのだけれども、今日も一日頑張ろうと思う。

もう6時になるのに陽がのぼってない。
最近は朝陽がのぼるのが遅くなってきた。

冬はもう、そこまできている。

残り5ヶ月のモラトリアム
気負いすぎずに一つ一つ成せることを成そう、学生生活を満喫しよう。






20111104

TOKYO DESIGNER'S WEEK@ROPPONGI

DESIGN TOUCH Park



01.DESIGNTIDE TOKYO

02.TOKYO MIDTOWN DESIGN TOUCH


11/3 この2つに行ってきた。



01.DESIGNTIDE TOKYO

Concept:「思考をトレードする場」

生活に関わる形あるものは、すべてデザイン行為の産物です。
インテリア、プロダクト、建築、グラフィック、テキスタイル、ファッション…どんなジャンルであろうとも、生活をよりよくするためにすべてのデザインは続いてきました。
そして、どんなデザイン行為も、それが社会に向かっている以上、単純な形の問題に収斂することはできません。
形を生み出す源泉である思考そのものを発表し、対流させて、あたらしい思考と形が生まれること。

デザインタイド トーキョーは、そんな思考をトレードする場です。

[HP抜粋]

コンセプトには賛同。
でも、学生である僕にとっては上手く思想をトレードできる場ではなかった印象。
でも面白いアイデアや商品に触れることはできたかな。

ターゲットはやっぱりデザイン関係の仕事を既にしている人々かな、そんな印象を受けた。
デザイナーと来場者の距離が近く、直接話が出来る点は非常に良い空間だなっていう感じだった。


会場構成は、2008/2009年は建築家:谷尻誠さん、2010年は建築家:中村竜治さん。
今年の会場構成は、プロダクトデザイナーの中坊壮介さん。


上記のお三方とディレクターの方の4人のトークセッションを聴いてきた。




中坊壮介さんは、存じ上げなかったけど無印良品のプロダクトデザインを多く手がけられている方らしい。

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今年の会場構成のコンセプトは、明確な言葉にはされていなかったが「写真スタジオのように展示作品や出展者が自然な姿で美しく佇む空間」ということだった。

自身が出店されていた年に、来場者がブログにアップしていた写真に写っていた出品者(自分)の写りがあまりにも悪かったことから、どうにかしたいなという想いを持っていたというシンプルな発想の基だったとのこと。

そこから写真スタジオの紹介写真のイメージをヒントに、光をディフューズさせた白いショーケースの様な今回の展示空間を考えたという。

正直、はじめに会場を観た時は「今年は…」という印象をもってしまった。
空間的には全然面白くない、前をみれば三年間のものとは比べ物にならない。

しかし、お話を聴くにつれて建築家とは違った視点、或はデザインの範疇で考えていらっしゃるんだなと知り非常に面白いなと思った。


「人(来場者)の体験」と「来場者の“写メる”という行為を通じてWEB上にその体験が増幅共有されていくプロセス」のデザインを通じて、来場者の豊かな体験を形作るとともに、DESIGNTIDEの“ブランディング”にもなっている。

ということだと個人的には解釈、なるほどなと思った。

できることならば空間としても面白いものであれば文句のつけようがないが、
設営・予算等々、非常に厳しい制約条件の中で最大限の効用を生み出す、またプロダクトデザイナーらしさといった意味では、導き出された解答は非常におもしろいものだったと感じた。




02.TOKYO MIDTOWN DESIGN TOUCH

デザイン監修:
トラフ建築設計事務所
協力:
NPO法人CANVAS
慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科(KMD)



NPO法人CANVASという団体のWORKSHOPが面白かった。

どこがやってるんだろうと帰宅後に検索したら、最近子供向けのクリエイティブイベントで注目されている団体だった。

とにかく、色んな体験ができる、18種類!しかも全て無料で。

広場が、子供達の笑顔で溢れている。
こりゃすごいなと思った。

しかも、WORKSHOPで作った風車で広場のインスタレーションができる。
参加者1人1人の手によって形作られる小さなモノが大きなモノを形づっていくその一体感みたいなものが素敵だった。

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しかし、MIDTOWNのイベントは毎回驚かされる、なんであんなに人があの広場に集まるのだろうか。

広場自体の造営うんぬんではなく、「立地」と「コンテンツ力」なのかな。
がらんどうな空間が求心力のある場所に用意されていて、そこに魅力的なコンテンツが入る。
そう考えてみれば、集まるのも当たり前なのかもしれない。

でも、普段も結構人がいるイメージ。
少し傾斜かかった絶妙なスクエアーな感じ、そんな気もする。
NYのメトロポリタン美術館周辺のセントラルパークの芝生広場のような感じ。

何の根拠もないので、これはここで終わり。

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写真の構造物は、恐らくトラフ建築設計事務所の設計だろうか?

傾斜と呼応して屋根のエレベーションが変わって、それが机にも屋根にもなるモノ。
WORKSHOPスペースや休憩スペースになっている。

木材でつくった簡素な構造物であるが人々の拠り所になり、いつもとは違った芝生のスクエアーの使い方を生み出していた。

発想はすごくシンプルだけど、生み出している効果は大きく素晴らしい。
どれくらいの予算でつくっているんだろうか気になる。


今日も思ったけど最近ずっと思うことに、もろもろのバランスって大切だと思う。
“デザイナー”は“アーティスト”とは異なるのだから。

そのバランスにおける重きの置きようで人はどのようにも振る舞える。

否応無しに外部要因によって振る舞い方を変えなければならないことがあるのだろう。
けど、そこは上手くやり抜いていくしかない。

その中でも、本当に重きを置きたい部分は見失わずにいたいものである。
やり抜くことで重大なチャンスが訪れるかもしれない。





ミラノで発表した坂茂さんのエルメスのパビリオン(おまけ写真だけ)





20111102

柴田敏雄 「concrete abstraction」 Valerio Olgiati 展「75分間」

MIKIMOTO GINZA 2

今日は夕方から写真展・展覧会で久しぶりの銀座に行ってきた。
土地勘がないせいかちょっとした迷子になりつつも、初めての BLD GALLERY へ。


向かう途中で、 MIKIMOTO GINZA 2 初めて実物をみた。

たった200mmという外壁の薄い構造体が、ガラスに紙を貼付けた様な印象で本当に建築というよりは模型のような印象だった。

建築は伊藤豊雄さん、構造は佐々木陸郎さん+大成建設(設計・施工)
照明デザインはこの前お世話になった LIGHTDESIGN の東海林さん。

中にレストランもあるみたいなので、是非時間がある時に中も見てみたい。
夜にいって、照明の感じを是非体験したい。

銀座ってしっかりとまち歩きをしたことがないので、社会に出る前に1度ちゃんと歩きたいと思う。ファサード建築について詳しい人と歩きたいものである。




01.柴田敏雄 「concrete abstraction」  http://bld-gallery.jp/exhibition/111007shibatatoshio.html

教授から紹介された「TERRA」で以前から気になっていた写真家さんの写真展。
写真展のタイトルを直訳すると、「コンクリートの抽象」

TERRAの印象が強く、カラー写真だったことに驚いた。
2005年以降、カラー写真も撮っているとのことだった。


約50枚を見て思ったことに、「コンクリート」と「水」の「堅さ」と「柔らかさ」の対比的な表現が非常に上手い。

全くの感覚的なものであるが、

“「水」の気持ちになってダムや水路を設計する必要性”

そんな感覚を写真から直感的に訴えかけられた。

まるで、生物のような水。
それを受入れるコンクリート構造物。
家具と人の手の関係のような、そんな感覚を受けた。


また、常々自分の目標として語っている、「風景とは、人々の生活や自然の営みの醸出す…」のくだりの「人々の生活」と「自然の営み」の関係性を考えさせられる写真の数々。

人間と自然の関係性が、人間の姿はこれっぽっちもなくとも暗示的にそのシーンに表現されている。

たわいもない被写体なのに、なぜか引きつけられる写真。
被写体の選眼力と的確で緊張感のある構図、これはなかなか真似できないだろう。

そんなこんな、勢いで帰り際に 2008年のランドスケープ展の時の写真集を買ってしまった。これまた表紙にもなっている赤いトラス橋の風景がかっこよるぎる。

最近カメラもって歩いてないな…カメラを持って旅をしたい




02.Valerio Olgiati 展 http://www.momat.go.jp/Honkan/Valerio_Olgiati.html

抽選で、運良く講演会が当たって Valerio Olgiati の講演と展示を拝聴・拝見してきた。

展示は、文章主体の説明的なものでなく、観覧者が会場内を見て歩き回って建築を体験し頭の中で組立てていく、そんな体験型のプロセスを強いるタイプのもの。メタボリズム展とは対比的である。

この前のギャラリー間の五十嵐淳展とも似ているなあ…
とか思っていたら隣で五十嵐さんが模型を見ていて驚く(余談)

「垂直に立上がる模型」「水平に広がるオルジャティの図像学的自伝と図面」

素材感をなくした白い彫刻の様な模型、スケールは全て「1:33」それらが宙に浮き、図面類が地を這う。


それらを視線を移しながら、1つ1つパズルのように頭の中で再構築し、オルジャティの建築の思考プロセスを体験する。

正直なところ、スイス建築(家)に対しての知識不足も助けになって展示だけでは理解できない部分も多々あったが、こう感覚的にぐっとくる部分があったのは確か。

素材感、そこから生まれる「触覚性」
ズントーもそうだけれで、スイス建築にはそれがあるような気がする。

自分が追い求めている「触覚性」の鍵。
それは恐らく欧州的なるものであるが多いにヒントになるものである。
そこから日本的なるものへと発展させていければ良い。



03.講演会「75分間」

まず、なぜ75分間か?
という疑問が会場の誰もの頭の中にあったのではないかと思う。

結果、90分以上の講演となってその意図は達成されたのだろうか?
そもそも意図はなんだったんだろうか?


そんな疑問はさておき、

内容としては自身の生い立ちや出身地の建築の持っていたスタイルに影響を受けていて、「異なるものが共存する対立的な構図の空間を許容できる資質」をもっている、それが自分にとっての原風景とでもいえるものであるという話から入る。

その後は作品ベースで7つの作品の説明を軸にしながら自身の建築哲学を説明していた。


講義の内容はデータベース化されて英語のみであるが後で動画配信されるとのことなので、内容をトレースして記録しておく必要性はないので思ったことと感じたことだけを記録しておこうと思う。



•職人的なるモノ、科学的(エンジニアリング的)なるモノ、哲学的なるモノの共存

ここでいう、「モノ」は実際の物質というよりは、もう少し曖昧な「モノ」であって「建築」という「モノ」を意図して使っている。

この3者がバランスしながら共存し、1つの「モノ」をつくりあげているそんな印象を受けた。

具体的に言えば、「手彫りの型枠を用いたオーナメントついた打放しコンクリート」であり、そこからは職人の手がモノに加わっているという「被人為感」(筆者定義)があり、それが他ならぬ「触覚性」を生んでいる。


また、「エンジニアリング的最適解から導き出された、有機的で樹木のように伸びていく構造」であり、モダニズム(コンテンポラリー)の提唱してきたモジュールを否定し、また表面的なポストモダニズムとは違ったモノである。


哲学的なるモノについては、感覚的な理解を出ず、まだ自分自身の言葉で言語化することが出来ない。

「異なるものが共存する対立的な構図の空間を許容できる資質」
「音楽で言えばハーモニーを目指したい」
「見た通りではない、直には解釈できないとき、そこに建築の豊かさがうまれる」

といった辺りの言葉が表しているように思った、理解してから言語化したい。



•言語化できるモノからしか建築をしない


オルジャティ事務所ではドローイングをしないという、構想段階ではスケッチは禁止。
模型もつくらない。(プレゼン用はつくるんだろうけど)

「絵を描いてしまうと、人は無意識的に過去のものを書いてしまう。」

「ひたすらフォーム(形態)についての議論を机に座ってするのみ。」
「会話からだからこそ、面白いものをつくれる。」

言語化できないものは、その人間の理解を超えていて良いものは創り出せないという。
線を引く前に大体のプランは終わっていて、幾何学的な問題を解くのに図面を各程度らしい。


この話をきいて、多くのポストモダニズム的なモノとは違い、エンジニアリングに基づいたしっかりとしたモノが生み出されていることに納得ができた。




•コンテクストについて

「コンテクストは条件の一つであり、政治、経済、等々との関連の中でバランスを保ちながら、自己の図像学的自伝からアイデアをいかに入込めるかが本質である」

当たり前といえば当たり前なんだけど、コンテクスト中心の土木デザイン教育を受けてきた自分からすると、グッと心にくるものがあった。

これは土木デザインに限らず、昨今の建築にもいえること。
最近の建築家はコンテクストからつくることを学んできたがそれだけでは足りないという。

「種々のパラメーター(問題)間のバランスをとる力」と「その中に自己のアイデアをいかに盛り込むか」

これに尽きる。
neyさんに惹かれるのもこの2点を持っているからであろうと思う。



冒頭に戻って、MIKIMOTO GINZA 2 について再度考えてみたいと思う。

自己のアイデアを落とし込むことについてはとてつもなく優れている。(哲学的なるモノ?)
また、優れた構造デザイナーとのコラボレーションによって構造的なるモノでもあり、照明についても照明デザイナーとコラボレーションしていて面白いものになっている。

しかし、どこかバランスを欠いているようにも思う。
それは誰の眼から見ても明白であろうか。

恐らく、日本の商業的な圧力がそのバランスを欠く要因となっているのだろう。
だから設計者の問題ではない、という意見もあるかもしれない。



「concrete abstraction」も観てきたので、土木についても考えてみる、同じである。

その圧力の要因が商業ではなく、経済的な或は政治的なものだったというだけである。




これからの世代の設計者はそれらの圧力さえも上手くいなして、バランスをとらなければならない、それくらい高度な力量を問われていると思う。

これは、言葉で言うほどに簡単なものでなく、非常に高度なものであると思う。


でも、それが「設計」に他ならないし「デザイン」そのものである。
その結果としての「形態:カタチ」である、そう思う。


いかに豊かなストック(オルジャティのいう図像学的自伝)を蓄積することができるか。
いかに種々のパラメーター間のバランスをとるか、その中で蓄積したアイデアを落とし込めるか。


成さねばならぬことは山のようにある。
成し遂げられると自分を信じて、日々精進あるのみだ。

Believe in Myself and Be Positive.


20111029

メタボリズムにかわる思想



[展示会公式パンフレット]




昨日、遂にメタボリズム展にいってきた。

メタボリズムシンポジウム、別件でここ数週間で何度となく六本木に行くも、「ボリューやばい!」という周囲の人々の感想によって形成された固定概念に阻まれてなかなか足が向かなかった。

しかし、行ってみたら案外すんなり。
夕方から閉館までの時間で大体しっかりと観切ることができた。

情報に負けては惑わされてはダメ、変な固定観念はダメだと再認識、反省。

内容は満足のいくものだったし、もう一度行きたいなと思える良い企画展だった。
さすが森美術館!シンポジウムは色々不満はあっただったけど展示はコルビジェ展の時と同じくらい良かった。



観終わって思うこと、学んだことは多々あったが一番気になったのは、

「メタボリズムの活動の中核に土木技術者(エンジニア)は全くいなかったのか?」

ということ。

当時の土木は、今とは比較にならない程の壁が他分野との間にあったのだろうと容易に予想がつくが、本当に全くいなかったのだろうか…気になるところ。



また、驚かされたのが当時のメタボリズムの活動には、「建築」や「都市」や「ID」といった分野だけでなく、「グラフィック」や「音楽」等の分野の人々も関わっていたということ。

どのような関わり合い方だったのかをより詳しく知りたいところ、その組織論に興味有り。


現在、微力ながら活動に関わっているGS会議」「GSDy」も「GROUNDSCAPE」という一種の思想の下で、「建築・土木・都市・ランドスケープ・ID・歴史」といった分野の志高き人々が各々の分野で活動を行いながら、緩く繋がりを形成し、時にコラボレーションし、より良き風景の創出を目指していると言える。

「現代版のメタボリズムの様なものである。」

と語弊を恐れずに言ってみる。

あまり意識してこなかったが、「建築・土木・都市・ランドスケープ・ID・歴史」といった風に意識的にしろ、無意識的にしろ、ある一定の枠組みを決めてしまうことには否めないし、それによる弊害も少なからずあるんだろうなと感じる。



最近、「広告」の持つ優れた方法論だったり、「ファッション」や「音楽」「グラフィック」等々の持つ力や思考パターンに、まちづくり等々へのヒントを感じることが多々ある。

地域ブランディングに代表されるように広告やグラフィックというものから派生していった様な手法がまちづくりにとって重要な方法論にもなってきている。

とある先輩から伺ったことには、広告・商社・メーカーが一体となってまちづくり部門へと進出してくるという。建設コンサルタントはこの中でいかにして足場を確保するか。
→これはまた別の機会に。



話が少しそれたが、そういった意味で1つ前の記事で告知したようなGSDyで企画・運営している「salon」という場は非常に重要な意味を持っていると思う。

上述したような枠組みに囚われず、メンバーが興味を持った「コト」や「ヒト」に着目して、その道の第一人者の方のお話を伺ったり、メンバー同士で議論する場を企画実践し、議論の輪を、人の繋がりの輪を拡げていく。

「音楽と空間」「阿賀に生きるー映画上映会」「色彩と素材」「構造」「鋳物メーカー」等々、最近のサロンの内容を思い返すだけでも、数は少ないながらに実に多様な分野の議論の場が実践されてきていると思う。

ある先輩が言っていた。
「もっとサロンを活用しよう!」

ホントに、その通りだと思う。
場所も資金も確保されている。恵まれた環境にいるのだ。
しかし、現状2ヶ月に1回程度の利用、企画者もあまり出てこない。
これは「もったいない」状況である。



なにが最終的に言いたいかと言うと、
それくらい面白いことができる「変革の時代」に生きているのだから、より志高く、積極的に「行動」を起こそうというコト。

(多分に自戒を込めてます。自分が何もできてないことは棚にあげてます。)


そういった積極的な行動能力、既存の枠組みに囚われずに柔軟に輪を拡げていく能力、そして何より時代を変えていこうとする野心。

メタボリストの諸先輩方から、激励をもらったような、そんな展示会だったと思う。


「頑張ろう、自分」
「頑張ろう、日本」