20111102

柴田敏雄 「concrete abstraction」 Valerio Olgiati 展「75分間」

MIKIMOTO GINZA 2

今日は夕方から写真展・展覧会で久しぶりの銀座に行ってきた。
土地勘がないせいかちょっとした迷子になりつつも、初めての BLD GALLERY へ。


向かう途中で、 MIKIMOTO GINZA 2 初めて実物をみた。

たった200mmという外壁の薄い構造体が、ガラスに紙を貼付けた様な印象で本当に建築というよりは模型のような印象だった。

建築は伊藤豊雄さん、構造は佐々木陸郎さん+大成建設(設計・施工)
照明デザインはこの前お世話になった LIGHTDESIGN の東海林さん。

中にレストランもあるみたいなので、是非時間がある時に中も見てみたい。
夜にいって、照明の感じを是非体験したい。

銀座ってしっかりとまち歩きをしたことがないので、社会に出る前に1度ちゃんと歩きたいと思う。ファサード建築について詳しい人と歩きたいものである。




01.柴田敏雄 「concrete abstraction」  http://bld-gallery.jp/exhibition/111007shibatatoshio.html

教授から紹介された「TERRA」で以前から気になっていた写真家さんの写真展。
写真展のタイトルを直訳すると、「コンクリートの抽象」

TERRAの印象が強く、カラー写真だったことに驚いた。
2005年以降、カラー写真も撮っているとのことだった。


約50枚を見て思ったことに、「コンクリート」と「水」の「堅さ」と「柔らかさ」の対比的な表現が非常に上手い。

全くの感覚的なものであるが、

“「水」の気持ちになってダムや水路を設計する必要性”

そんな感覚を写真から直感的に訴えかけられた。

まるで、生物のような水。
それを受入れるコンクリート構造物。
家具と人の手の関係のような、そんな感覚を受けた。


また、常々自分の目標として語っている、「風景とは、人々の生活や自然の営みの醸出す…」のくだりの「人々の生活」と「自然の営み」の関係性を考えさせられる写真の数々。

人間と自然の関係性が、人間の姿はこれっぽっちもなくとも暗示的にそのシーンに表現されている。

たわいもない被写体なのに、なぜか引きつけられる写真。
被写体の選眼力と的確で緊張感のある構図、これはなかなか真似できないだろう。

そんなこんな、勢いで帰り際に 2008年のランドスケープ展の時の写真集を買ってしまった。これまた表紙にもなっている赤いトラス橋の風景がかっこよるぎる。

最近カメラもって歩いてないな…カメラを持って旅をしたい




02.Valerio Olgiati 展 http://www.momat.go.jp/Honkan/Valerio_Olgiati.html

抽選で、運良く講演会が当たって Valerio Olgiati の講演と展示を拝聴・拝見してきた。

展示は、文章主体の説明的なものでなく、観覧者が会場内を見て歩き回って建築を体験し頭の中で組立てていく、そんな体験型のプロセスを強いるタイプのもの。メタボリズム展とは対比的である。

この前のギャラリー間の五十嵐淳展とも似ているなあ…
とか思っていたら隣で五十嵐さんが模型を見ていて驚く(余談)

「垂直に立上がる模型」「水平に広がるオルジャティの図像学的自伝と図面」

素材感をなくした白い彫刻の様な模型、スケールは全て「1:33」それらが宙に浮き、図面類が地を這う。


それらを視線を移しながら、1つ1つパズルのように頭の中で再構築し、オルジャティの建築の思考プロセスを体験する。

正直なところ、スイス建築(家)に対しての知識不足も助けになって展示だけでは理解できない部分も多々あったが、こう感覚的にぐっとくる部分があったのは確か。

素材感、そこから生まれる「触覚性」
ズントーもそうだけれで、スイス建築にはそれがあるような気がする。

自分が追い求めている「触覚性」の鍵。
それは恐らく欧州的なるものであるが多いにヒントになるものである。
そこから日本的なるものへと発展させていければ良い。



03.講演会「75分間」

まず、なぜ75分間か?
という疑問が会場の誰もの頭の中にあったのではないかと思う。

結果、90分以上の講演となってその意図は達成されたのだろうか?
そもそも意図はなんだったんだろうか?


そんな疑問はさておき、

内容としては自身の生い立ちや出身地の建築の持っていたスタイルに影響を受けていて、「異なるものが共存する対立的な構図の空間を許容できる資質」をもっている、それが自分にとっての原風景とでもいえるものであるという話から入る。

その後は作品ベースで7つの作品の説明を軸にしながら自身の建築哲学を説明していた。


講義の内容はデータベース化されて英語のみであるが後で動画配信されるとのことなので、内容をトレースして記録しておく必要性はないので思ったことと感じたことだけを記録しておこうと思う。



•職人的なるモノ、科学的(エンジニアリング的)なるモノ、哲学的なるモノの共存

ここでいう、「モノ」は実際の物質というよりは、もう少し曖昧な「モノ」であって「建築」という「モノ」を意図して使っている。

この3者がバランスしながら共存し、1つの「モノ」をつくりあげているそんな印象を受けた。

具体的に言えば、「手彫りの型枠を用いたオーナメントついた打放しコンクリート」であり、そこからは職人の手がモノに加わっているという「被人為感」(筆者定義)があり、それが他ならぬ「触覚性」を生んでいる。


また、「エンジニアリング的最適解から導き出された、有機的で樹木のように伸びていく構造」であり、モダニズム(コンテンポラリー)の提唱してきたモジュールを否定し、また表面的なポストモダニズムとは違ったモノである。


哲学的なるモノについては、感覚的な理解を出ず、まだ自分自身の言葉で言語化することが出来ない。

「異なるものが共存する対立的な構図の空間を許容できる資質」
「音楽で言えばハーモニーを目指したい」
「見た通りではない、直には解釈できないとき、そこに建築の豊かさがうまれる」

といった辺りの言葉が表しているように思った、理解してから言語化したい。



•言語化できるモノからしか建築をしない


オルジャティ事務所ではドローイングをしないという、構想段階ではスケッチは禁止。
模型もつくらない。(プレゼン用はつくるんだろうけど)

「絵を描いてしまうと、人は無意識的に過去のものを書いてしまう。」

「ひたすらフォーム(形態)についての議論を机に座ってするのみ。」
「会話からだからこそ、面白いものをつくれる。」

言語化できないものは、その人間の理解を超えていて良いものは創り出せないという。
線を引く前に大体のプランは終わっていて、幾何学的な問題を解くのに図面を各程度らしい。


この話をきいて、多くのポストモダニズム的なモノとは違い、エンジニアリングに基づいたしっかりとしたモノが生み出されていることに納得ができた。




•コンテクストについて

「コンテクストは条件の一つであり、政治、経済、等々との関連の中でバランスを保ちながら、自己の図像学的自伝からアイデアをいかに入込めるかが本質である」

当たり前といえば当たり前なんだけど、コンテクスト中心の土木デザイン教育を受けてきた自分からすると、グッと心にくるものがあった。

これは土木デザインに限らず、昨今の建築にもいえること。
最近の建築家はコンテクストからつくることを学んできたがそれだけでは足りないという。

「種々のパラメーター(問題)間のバランスをとる力」と「その中に自己のアイデアをいかに盛り込むか」

これに尽きる。
neyさんに惹かれるのもこの2点を持っているからであろうと思う。



冒頭に戻って、MIKIMOTO GINZA 2 について再度考えてみたいと思う。

自己のアイデアを落とし込むことについてはとてつもなく優れている。(哲学的なるモノ?)
また、優れた構造デザイナーとのコラボレーションによって構造的なるモノでもあり、照明についても照明デザイナーとコラボレーションしていて面白いものになっている。

しかし、どこかバランスを欠いているようにも思う。
それは誰の眼から見ても明白であろうか。

恐らく、日本の商業的な圧力がそのバランスを欠く要因となっているのだろう。
だから設計者の問題ではない、という意見もあるかもしれない。



「concrete abstraction」も観てきたので、土木についても考えてみる、同じである。

その圧力の要因が商業ではなく、経済的な或は政治的なものだったというだけである。




これからの世代の設計者はそれらの圧力さえも上手くいなして、バランスをとらなければならない、それくらい高度な力量を問われていると思う。

これは、言葉で言うほどに簡単なものでなく、非常に高度なものであると思う。


でも、それが「設計」に他ならないし「デザイン」そのものである。
その結果としての「形態:カタチ」である、そう思う。


いかに豊かなストック(オルジャティのいう図像学的自伝)を蓄積することができるか。
いかに種々のパラメーター間のバランスをとるか、その中で蓄積したアイデアを落とし込めるか。


成さねばならぬことは山のようにある。
成し遂げられると自分を信じて、日々精進あるのみだ。

Believe in Myself and Be Positive.


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