いかんいかん。
前回の続き
東北自動車道をおり、一般道で阿武隈川沿いを太平洋側に出て名取川周辺地域に出る。
大通り沿いを走っていると、決して地震があったようには見えずどの店も営業を続けている。
(途中立ち寄った電化製品の小売店などでも天井パネル等が剥落している等、地震被害があったようであるが)
大通りから沿岸地域に向かって車を走らせていくと、その風景は徐々に変化していく。
田畑は海水に浸されたのかひび割れ、今後数年間、不毛な大地になると思わせる様相を呈していた。
東部道路手前のJAに車を停めさせて頂いてそこから徒歩で視察に向かう。
東部道路の盛土の東西ではその風景が激変する。
沿岸側にでるとすぐに流されてきたであろう車や船が多く目につくようになる。
盛土の内側(内陸側)では浸水の後や多少のゴミが流されてきていたりというのはあったが、さすがにこのようなものまではなかった。
(上)東部道路まで流されてきた車と船(下)未だ撤去作業の進められている風景
他の地域に比べれば、市街化調整区域であり民家の密集度も少なく田畑が多く、瓦礫の撤去も進んでいる様に思われるが、未だ撤去作業は続いていた。
実は行く前までは、既に一ヶ月も経っているので瓦礫の処理等だいぶ終わっているんではなかろうかなどとバカなことを思っていたが、その予想はすぐに間違っていることを突きつけられた。
(上)撤去で押込められたガードレールと車
(中)人々の“生活の記憶”の山(下)傾斜したフェンス
先行して、何週間か仙台でボランティアをしていた研究室の友人から「終戦後みたいだよ、ホント」と言われたことを肌身で感じた。
東京でTVや新聞、HP、Twitter等で流れてくる情報からは想像もできない様な津波被害のディテールが見えてくる。
写真や映像で見ていた「瓦礫」は、ただの「瓦礫」でしかなかった。
しかし被災地で直にそれらを見るとそこには人々の生活の痕跡、思い出が見えてくる。
ただの瓦礫ではない、記憶の山であることが分かる。
居たたたまれない気持ちになるとともに、自然に対する人間の儚さ、言葉にすると陳腐に聞こえるがそんなことを感じた。
東部道路の白いアーチがなんともいえない感情を誘う
技術者の卵として、上の風景には心が痛んだ。
道路交通を支える橋梁はそこに生き残り、一方で生活を支えていた空間は跡形もなく崩壊している。
エンジニアとは何か。そんなことを考えさせられる風景だった。
特に橋梁の勉強をしたいたからなおさらか。
車の撤去についての張紙(なぜか大宮ナンバー)
アルバイトで車の保険関係の仕事をしているからか、かなりこの張紙が気になった。
地方都市=車社会。
今回の津波で使い物にならなくなった大量の車。
これらの処理も大きな問題である。
財産補償の問題も保険業界では大きな問題になっているようだ。
個人の財産に対する考え方もしっかりと考えならねばならない様に思う。
災害周期とストックの関係。
これからの住民の方々の生活の足の問題も残る。
中古車市場は繁盛しているようだが、一方で工場が稼働せず新車を供給できない自動車産業。
抜本的に車を使わずに暮らしていける都市を考えていくいいきっかけになればなと思ったりするが。
(上)木造家屋の被災状況
(下)避難所となる学校周辺の状況(体育館屋根が周辺の状況と対比的に目立つ)
(上)窓ガラスに浸水線が見て取れる(浸水高2m程度)
(上)瓦礫撤去に関する印
仙台平野における居住の問題。
市街化調整区域に形成されていったこれらの住居群。
NHKの地震特集でも住民の声を聞いたが、
やはり津波に対する圧倒的な認識不足があるようだ。
自分の住んでいる場所がどのような場所なのか、リスクはどの程度あるのか。
財産に対する考え方もしっかり考えるべきだ。
土地の安い地域=リスクの大きい地域に、私財を投資して住む。
天秤なんだろうけど、それらを選ぶのは住民達。
その選ぶ為の正確な資料を提示し、選択の自由、すなわち責任は各人がしっかりともつ。
生存にたいする意識改革、命すらも行政任せという行政依存体制も見なすいい機会であると思う。
一方で、風の噂ではこの地域にはSCを核とした再開発プランも既に考えられているようである。
SC=地域内の財ではない外来の財=財を早期に回収するもの。
そんなものがこの地域にでき、便利になるから人々が集い住まう。
そこに判断の誤りが発生する。
SCが公共性を帯びたもの(アメリカのライフサイクルセンターのような)でかつ、避難施設として持続的に維持活用されるものであって欲しい。
持続的に。ある時期にがきたら撤退、避難場所はなくなりますでは困る。
それだけは避けて欲しいなと思う。
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